Re: Re: ヒコー機の速度 ヒコーキの速度は同じだけど、航続距離が伸びて大幅に時間短縮。初めて太平洋を越えた時は、もうJET機時代に変わっていたけど、サンフランシスコに行くのに、ウエイキー、ホノルル、の2回のテクニカル給油でした。2回目ではホノルルまでノン・ストップ、10回目くらいでジャンボがでてからドンドン航続距離の伸び。1964年では、太平洋超え行き便は18時間、帰り便は19.5時間。ヨーロッパ行きも香港から南アジアや中近東を転々と停まりながら、24時間以上で憧れのロンドンに。それが、アンカレッジ経由の北極航路が、長い間、続きました。 ヒコー機のトイレが水洗ではなく、溜め式なのも覚えています。 米ドルを手にいれるのに、旅程表を大蔵大臣にだして、一日最高25ドルで7日分の認可。足りない分は450円で闇ドルを購入。パス・ポートも一回限りのが。それが、年500ドル、一回500ドル、と増えていき、それでも無制限はかなり後で数字旅券が認められるようになったころ。最初のパス・ポートは、今のより二回りくらい大きい紺色で外務大臣の印刷でない直筆サインと朱印の公用印つきでした。今でも記念に持っています。 初めて泊まったサンフランシスコのヒルトンが18ドルだったのを覚えています。ロンドンまで行こう思えば各駅停車で行けるのですが、当時の何日分のドルの安い正規為替欲しさに、何日もかけていく旅程表作り。最高で25日まで認めてもらったことがあります。 ヒコー機の切符は、国内で円払いでした。 船では、商船三井が移民船の、アルゼンチン丸とブラジル丸が月一で。APLのプレシデント・何とかが、大活躍していました。 一度、入国審査のところで、パス・ポートがニセ物だって別室行きに。日本はアメリカに敗戦後、アメリカの領土になっているのに、なぜ日本のパス・ポートなのかと、質問責めに。その上司がどこかに電話をかけて、やっと無罪放免に。 今は、えらい変わりようです。今の70歳以上の人たちの自分を犠牲にして、主義主張は違えども日本を良くしようという目標で必死に働いた頂いたお陰です。大爺さん、大婆さん、ありがとうございます。あなた方がいなければ、いまの「地球の歩き方」なんて存在しない世界の夢物語なんですから。
外貨の持ち出し規制 mxegamiさん こんばんは 貴重なお話をありがとうございます。 アンカレジ経由時代のそのまた前の時代のご経験、たいへん興味深く拝読しました。 >米ドルを手にいれるのに、旅程表を大蔵大臣にだして、 外貨が貴重だった時代のことは、知識としては知っているのですが……、 感覚として把握するのがなかなか難しい。 よくぞここまで復興したものだと、感動してしまいます。 >今の70歳以上の人たちの自分を犠牲にして、 >主義主張は違えども日本を良くしようという目標で必死に働いた頂いたお陰です。 まったくおっしゃるとおり! その気になれば、いつでもどこでも行けてしまう現在の旅行事情も、腹いっぱいが当たり前の日々も、先代の犠牲と努力のおかげ。 日本を良くしようという意思は引き継いでいかねばなと思います。 では!
勉強になります 私が産まれる以前の事にはとても興味があり、「歴史」 を学ぶのは大好きです。「アンカレッジ経由」これ 子供の頃よく聞きました。パスポートが1回$500 $1=¥360時代の450円「闇ドル」初めて聞いた ことで面白いお話でした。 最近はNHKの大河ドラマが好きで来年放送の「八重の桜」 を楽しみにしており、橋田壽賀子さん原作で、在米国日系人 をテーマにしたTVドラマ「JAPANESE AMERICAN」や ブラジル移民をテーマにしたTVドラマ「ハルとナツ」を見て 昔の日本人の姿を知りました。 これからも、面白いお話があれば「旅のレポート」 として是非読ませて頂きたいです。 ありがとうございました
アンカレッジ経由 私が初めて外国に行ったのは西ドイツでしたが、その時からアンカレッジ経由だったのを覚えています。 ヨーロッパ、北米東海岸、南米行きは全部アンカレッジ経由だったので大変繁盛していましたね。 日本航空の南米行きがアンカレッジ、ニューヨーク、サンファンを経由してリオデジャネイロ行きだった事。 日本人移民が圧倒的に多いサンパウロになったのは大分あとの事でした。 後に出来た日本航空のサンパウロ行きはDC-8でしたが、ロサンゼルスからマイアミを経由してサンパウロ、 そのサンパウロも現在のグアルーリョスではなく、新サンパウロ空港として建設されたヴィラコッポスでした。 サンパウロから100km内陸のカンピーナスに建設された為、大都市ではない原っぱに着陸でした。 グアルーリョスが出来てからは貨物便専用空港になってましたが、最近は新興航空会社のAZULの本拠地に。 AZULの社長はブラジル人で、米国のジェットブルーの創設者でもあります。 日本の海外旅行促進計画のテンミリオン計画でしたか1000万人を海外旅行に! という元年にVARIG航空でサンパウロに向かう時、成田空港は大混雑で足の踏み場もないほど、 だけどサンパウロ・コンゴーニャス空港に到着したのは喧騒が嘘の様なたった10人、 懐かしいバックパッカー時代の思い出です。 そのVARIG航空の日本発最終便に約束通りファーストクラスでサンパウロまで行けて良かった。 太平洋と大西洋、2つの海を越えるのはVARIGと決めていましたから。 でも、倒産してしまった。 当時のVARIGグッズを沢山持ってるので思い出だけ健在ですが。 南米移民船は、あるぜんちな丸、ぶらじる丸、あふりか丸、らぷらた丸、などが主流でしたね。 今でも同船者同士の結託は凄いですもの。 神戸に在る海外移住と文化の交流センター(旧神戸移住センター)に資料が展示されています。 http://www.kobe-center.jp/index.html ここの建物も数年前までは凄く恐ろしい感じでしたが整備されて博物館風に。 ここから鯉川筋を真っ直ぐ下りたところから最初の移民船「かさと丸」は出港したのだとか。 メリケンパークにモニュメントが残されています。 ブラジルからの観光ツアーはメリケンパークには来ますけど移住センターはスルーです。 自分の先祖の苦しみを知らない方が親切だとかで。 移民の歴史は沢山勉強したけど、日本とブラジル、どちらが暮らし易いか? 日本は生まれ育った国で別段努力も必要ないけどなんとなく生きて行ける。 ブラジルは言葉も生活様式も全然違うので飛び込むにしても努力が必要、 でも気楽に生きれるのは圧倒的にブラジルに軍配が上がるので、 気が付けば私もブラジル移民になってました。 まだ行ったり来たりフラフラしてますけど。