Re: ゴールデン・ギャラクシー?

未成年さんこんばんは

先日は、懐かしいサウンドを有難うございました。
私の、マリポサのアパートはワンベットルーム、家具付き、ヒーティッドプール、壁ラジオ付きで月180ドルでした
当時AMラジオは、 KHJ FMは、 K-BIGとかK-JOYをよく聞いていました。
カーペンターズのミスターポストマン、名前は忘れましたがセクシーなのか爽やかなのかよく解らない女性の、ラビング ユー。 モータウンのコンボイ、フライロビンフライ ハッスル等
所謂プロモーションていうやつでその頻度には驚きました。
日本人のルームメイトが一人、彼も未成年でした。三人で暮らした時期もありました。
週末には、よくほかの日本人と麻雀をやりました。そんな時隣の部屋のメキシコの女の子がおにぎりを作ってくれました。具はなんと 七味唐辛子に醤油、結構いけました。


残念ながら私のギャラクシーは、64年の薄汚れた白。ほとんど洗車をしなかったので、ある時パイオニアの駐車場でエンジンフードの上にWASH ME!!と指で書かれるほどホコリで汚れてました。
そんな時は、洗車付のガスステーションのクーポンを探し10ガロン入れて車を洗ったものです。
サングラスは、みんなかけてましたね。
では
BY APPLE KID
 

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1件のコメント

  • Re: Re: ゴールデン・ギャラクシー?

    アップル・キッドさん、こんにちわ!

    そうですか、キッドさんのギャラクシーは白でしたか。。それでは残念ですが僕の思い違いのようでした@失礼しました!75年頃の当時いつも真っ黒なサングラスをかけて金色のギャラクシーに乗っていた、みんなから月光仮面と呼ばれていたエバンスでの友達がいたので、もしかしたらそうかなと思った次第です。

    僕は勿論旅もするのですが、基本的にはどこか一か所に住むのが好きで、今までに様々なところに住んできたのですが、何が嫌やかと言うと知りあった人たちとの別れなんです。せっかく仲良くなったのに海外だとヴィザの問題とかその他の理由で別れを余儀なくされてしまい、しかも余程の事がない限りその人たちとは2度と会えないのが現実かと思います。なのである時点から別れが嫌でもう旅をするのを辞めてしまったし、誰かと知り合いになっても出来るだけ浅い付き合いで済ませるようになってしまったんです。。でも今の時代ならメールも携帯もネットもあるからその気になれば連絡は取り続けられますね?!でも昔は紙に書かれた知らない住所と電話番号しか残らなかったので再会は無かったですよね?特に相手がオンドゥラスとかニカラグアとかウルグアイへ帰って行く連中だとそれが多分今生の別れになるのが分っていたから辛かった事を覚えていますし、例え同じ日本人どうしでも広島とか四国とかへ帰ってしまえばやはりもうほとんど再会出来ないので、海外で知り合った連中と分れる時はある意味毎回今生の別れだと思っていました。もう少し早くネットや携帯があればそんな気持ちにならずに済んだのでしょうが75年と言えばファックスすらなかったし電話はすべて固定だし(当時アメリカでアンサリング・マシーンを初めて知って驚きました:)みんなどこでも暇さえあれば手紙を書いていましたよね?!

    マリポサ、懐かしいですね~!フリーウェイの出口もありましたよね?僕が住んでいたホバートのアパートもワン・ベッド・ルームのファーニッシュドで、プールがあって同じ金額の180ドルでした。で、いろんな連中が出入りしていたのでやはりキッドさんと似たような生活をしていたのかもです:)LAではそれ以外にもガーディナに住んでいた時期もあってレドンド・ビーチ・ブルバードの明治屋とかその周りの日系人がやっているお店があまりにも充実していてカリフォルニアで日本の生活が出来る事に驚いた記憶があります:)

    ラビング・ユーはミニ・リパートンですね!( http://www.youtube.com/watch?v=94nDCm4NqIA )彼女はスティービー・ワンダーの協力でこの曲を75年に世に送り出していますが76年に癌に侵されている事が分り懸命の治療もむなしく79年に31歳の若さで他界しています。。確か当時のカーター大統領が哀悼の意を表した気がします。。短い人生でしたがでもこんなに美しい曲を世の中に残せたのは幸いですね。。

    それにしてもアメリカはラジオが発達していてキッドさんが言うようにヘビー・ローテーションでこれでもかと云うくらいに何度も何度もかけるから、誰が歌っているのか知らないのに知らない間に曲を覚えてしまいますよね?!で、それらがスタンダードになっていき、その時代の産物として歴史に刻まれる。。。大統領選挙なんかもそうですが、本当に良いものしか残らないように出来ているアメリカの素晴らしいシステムですよね?!日本もそう云ったところを学べば良いと思いますが、でもこう云う事は住まないと理解出来ないのかも。

    ところでキッドさんのアパートに同居していた未成年の方もエバンスに通っていたんですか?だとしたら僕はその人を知っているかも。エバンスで未成年だったのは確か僕を入れて2人しかいなかったので。。でも名前は忘れてしまいました!

    とりあえずはそんな感じですね~。当時のエバンスは確か全校生徒で1500人くらいいて、その内の3分の1くらいが日本から来た人たちだったので、少なくても5~600人の日本人がいたような気がしますがネット上でもほとんど見かけないですね?それにネット上で1970年代の話が出来る人があまりいない気がするのですが、これはやはり我々がオールド・スクールの出身で当時の人たち(団塊の世代?)はコンピューターとかいじらないって事なんでしょうかね?!

    何はともあれeお話しに付き合ってくれている事に感謝しています!

    それではまたです@良い日曜日をお過ごし下さいv(^_^)v












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    ありがとう!! Minnie Riperton

    未成年さん こんばんは
     
    いやー参りました、いっきに40年近く時間が戻りました。本当にありがとうございます。
    この曲は、日本でも何度か聞いてはいましたが、映像を見るのは初めてでした。
    ていうかMinnieを見るのもこれがはじめてだったのですが、何故か壁ラジオの光景がしっかりと蘇ってきて思わず鼻の奥の方がツーンとしてきました。不思議ですね。

    私はLAに2年間だけ生活をしただけでした。未成年さんは、海外の滞在経験が多くて羨ましいですね。
    そして、私たちのこの経験は絶対に失うことのない財産ですね。

    私のルームメイトは、エバンスです。 広島カープの大ファンで彼がLAに来た年に初優勝をしてその瞬間が見られなくてと悔しがっていました。私の帰国のあと彼は、PCCに入った日本人とパサディナで暮らしていました。
    私の白いギャラクシーと一緒に。

    マリポサからエバンスまでは、サンセットで 授業のあとサンペドロより少し東の工業団地みたいな所でバイトをして帰りは、多分テンプルからグランドそこから101でホバートの近くのセラーノを通りサンセット マリポサでしたね。セラーノにはリトル東京のモダンフードでバイトをしていた友人が住んでいました。
    バイトといえば、当時イミグレの摘発がよくありましたね。私は、日本の印刷機械のメーカーの現地法人でしたのでほとんどその心配はありませんでしたが、隣の縫製工場などはモスグリーンのAMCのマタドールがしばらく止まっていた(内偵していた)翌日工場が閉鎖されていました。

    未成年さんというより今は、未還暦さんですね。しかしパソコンを自由自在に扱い大したものです。
    私の世代は、詳しい人はとてつもなくマニアックですがほとんどは、見るだけ、買うだけ、バンキングだけが
    せいぜいですね。

    人生の中での出会い別れは、いつの世も辛いものです。英語の辞書にクラスの皆から名前を書いてもらいましたが
    今はそれが少し読みにくくなっています。時間はある意味残酷なものですね。
    当時のエバンスのクラスメートで、一人だけ数年ごとにあっている人がいるんですよ。
    麻雀の時、唐辛子のおにぎりを作ってくれたメキシコの子です。日本に住んでいるので。
    今、エバンスを語れるのは、彼女と未成年さんだけですね。
    では
    BY APPLE KID