MAIDE IN OCCUPIED JAPAN タイ国鉄さん 占領下の日本では輸出用の品物には全部この表示がされていました。 進駐軍(占領軍と呼ぶべきですがなぜかこう呼んでました)の食べたあとの缶詰の空き缶で作ったブリキのオモチャが大量にアメリカに輸出されましたが これらにも全部この印字がされました。 安かろう悪るかろう・・すぐコワレルのイメージでした。 SEIKOSHA は 服部時計店の製造部門としてすでに評判は確立していました。 たしか朝鮮戦争が始まると当時の北朝鮮軍、中国人民軍が夜襲をもっぱらにするので 夜光塗料を塗った腕時計が大量に必要でその特需で精工舎やシチズンが 戦後の荒廃を切り抜けたとか・・・。 戦後かなり早くから服部時計店は銀座4丁目(昔の人は尾張町の交差点と・・・いえ私は知りませんが)のカドの時計塔で有名で 時計メイカーとしては 諏訪の精工舎・・いやここは 第2精工舎だったかな、としてもう名をなしていました。 戦争中のゼロ戦などの時計・・・人呼んで飛行時計・・にも SEIKO と あったような。 このへんは 多分 EAVO 先輩の縄張りのはず。
Re: MAIDE IN OCCUPIED JAPAN ぼうふらおじさん さん と書くとなにか変な感じですが、初めまして。 特にスイスに関しての造詣の深さに感嘆しています。 レスありがとうございました。 うろ覚えのSEIKOの謎が解けました。 あの時計があったら今頃は値打ちがあったのになぁ と悔やまれます。 高値で売れるとか、そんな下世話なことではなく 我が家の歴史や子供たちの教材として。 先日、日本アカデミー賞を総なめにした 「3丁目の夕日」を観ましたが、昭和33年の時代設定で 子供の頃を思い出し懐かしさを覚えましたが、 ぼうふらおじさんはもう少し上の世代なのですね。 幼稚園へ入る前、伊丹空港の近くに住んでおり 進駐軍のカマボコ兵舎が立ち並んでいて 母の話によると乳母車に乗った私や弟に米兵がチョコレートを くれたそうです。うっすらとしか記憶にありませんが。
タイ国鉄総裁殿 こんにちは 伊丹空港、米軍機が良く飛行しておりました。 民間機も柵ひとつで 目の前に止まっていました。 懐かしいですね~~。
三丁目の夕陽 タイ国鉄さん 三丁目の夕陽は見ていませんが 昭和三十三年は学校を出て会社勤めが始まった年です。 朝鮮戦争が終了して戦争特需がおわり時ならぬ不景気風が吹いて学校の先輩たちはみんな就職にオタオタしていたのですが この4月から突然各社とも大量に新卒を取り始めました。 そろそろあちこちの通りの屋台店が立ち退きとなり お店が軒をならべるようになったコロです。 あちこちの町もまだまだ高層ビルの数も少なく まだまだあちこちの夕陽ケ丘や 富士見坂、富士見町からは しっかり富士山が見えました。 西陽のきつい西側の部屋の家賃はやすく 電車の線路際の西日に当たる部屋・・・が 若い人たちの定番の棲み家でした。 主流派ようよう トリス。 トリスを呑んでハワイにゆこう・・・は もう少しあとだったような。
Re: MAIDE IN OCCUPIED JAPAN 私の日本海軍航空隊の腕時計は2~3年前に通信販売で買った中国製の複製品です。 それにはメーカー名は書いてありません。単に海軍航空隊 1930となっています。 従兄弟が陸軍少年飛行兵なので今度行ったら確かめて見ます。