いったいなにつくっていたのだろう? 空港の真ん中の畑で? 農水省の 産地ブランド発掘事業にでて、 成田空港三里塚産とか書いて成田空港でお土産として売り出したら おもしろいのですが。 http://www.maff.go.jp/j/seisan/gizyutu/hukyu/h_zirei/brand/brand.html 小泉くんあたりやらないかな? 国交省と対抗して。
ポチとミケさんへ こんにちは。 とてもいいカキコミを目にしたので貼り付けます。 いま一方的に語られている物事を違う角度から見つめたものにご興味を持っていただけると思います。 ****************** 成田(三里塚)は戦後史の象徴ともいえる土地です。 成田農地のはじまりは、敗戦で帰国した満州開拓団の入植でした。政府の肝いりの入植地には、ほどなくして復員兵も合流しました。彼らは、土地の開墾から出発し、養豚と麦や根菜の栽培の組み合わせによる有機農業を立ち上げましたが、害虫の発生や水不足に悩まされ、思うような収穫をあげることができず、出稼ぎ頼りの暮らしが続きました。農業収入が安定しだしたのは、高度成長にともない都市部の消費が増大したころでした。入植から20年して、野菜主体の近郊農業やピーナッツの生産に活路がみえたのです。 ところがその矢先の1966年、空港の建設のため立ち退きが命じられました。経済成長を軌道に乗せるための本格的国際空港建設は日本の急務でした。成田の地が選ばれたのは、他と比較して農地としての歴史が浅く用地買収にともなう反対も激しくはなかろうとの判断でした。行政による通常の農地買収とは違い、成田の入植農民には代替農地は用意されませんでした。 国家の方針で満州の原野を開拓したものの敗戦ですべてを失い、命からがら帰国してゼロからの再出発でようやく農業で生活できるようになったところで、また自分たちが開墾した農地を手放せとの国家の命令でした。ですから成田空港建設反対運動は、ごね得狙いなどではなく誇りと生活のための戦いでした。反対運動は、当時の労働運動と連動しながら全国的な社会運動へと発展し、いったんは成功するかに思えました。 しかし、いわゆる左翼が空港建設反対運動のなかで勢力を伸ばすにしたがい、行政対農家集団の対立は、米ソ冷戦の代理戦争の場へと変質していきました。反対運動の主役は革命家を標榜する過激派や日米安保反対・ベトナム戦争反対闘争の学生にとってかわられ、政府当局との衝突そのものを目的とする反対運動は苛烈を極め、ついに三名の機動隊員が殉職するに至りました。 激しい闘争のなかで、空港は1971年に着工し、滑走路三本の予定だったところを一本のみで1978年に開港しました。長引く闘争にも過激派に政治利用されることにも疲弊した開拓農民は、行政が斡旋する成田空港内の職に就く者あり、千葉に増え始めたゴルフ場に職を求める者あり、高齢のため現役を退く者ありと、次々に農地を手放していきました。 代わって成田農地の地主となったのは、過激派の支持者たちでした。その後も滑走路の拡張のたびに闘争が起きましたが、米ソ冷戦の終焉とともに、革命への熱は日本社会から遊離し、成田の闘争もまたその規模を縮小していきました。 そして、最初の立ち退き命令から50年の歳月を経て、2016年、三本目の滑走路の整備を阻んでいた最後の農家の土地明け渡しが決定しました。皮肉なことに、あれほどの反対を押して建設した成田空港は首都の空の玄関の地位を羽田空港に譲りつつあります。成田の着工当時には技術的に考えられなかった羽田の海への拡張が容易になったからです。ヘルメットにバンダナマスクの過激派が機動隊と衝突する映像を覚えている人は多くとも、開拓農民の苦闘を知る人は少なくなりました。 成田の奇妙な滑走路は戦後史を背負っています。アメリカから成田空港におこしの際には、ピーナッツを食べて開拓農民のガッツにも思いを馳せてください。 *****
感謝 cokemomoさん、ありがとうございます。
成田参道の漬物 さすがは cokemomo 様です。 話変わって成田参道でそこそこ売られている漬物は 成田空港で探しても漬物は国際線機内持ち込み禁止になって以後かその前からか 国際線制限域内で探しても私には見つけられませんでした。 国内線制限区域で一銘柄だけ売っているのを発見し自家と近辺の土産にしたものの好みの銘柄ではなかった。 国際線機内持ち込み禁止になってから扱いがなくなったとしたら生産者にはお気の毒な話。
cokemomoさん、ありがとうございます。 簡潔でありながら、事の起こり、経緯のよくわかる一文の掲載、ありがとうございます。 一方的な書き込みが多く、残念に思っておりました。 確かに.....一般には、闘争終盤の、代理戦争と化したころの印象が強いかもしれませんが、空港建設計画の立ち上げのころからを知る者には、また、別の思いがあります。 今も無いわけではありませんが、とりわけ、高度経済成長の時代には、高速道路やダム等多くの公共工事のために立ち退きを余儀なくされたひとは少なくなかったですものね。 成田に限らず、十分な金銭的賠償があってさえ、すべてのもの(例えば農地・コミュニティなど)をお金で買うことは出来なかったにも関わらず、その金銭的補償でさえ、決して十分とは言えませんでした。 手軽に考えて、彼ら農民なら押し切れる、と踏んだ行政側の判断の誤りが、後々長く尾を引いてしまう結果を生んだのだと思います。 地元農民にとって、国にとって、一般利用者にとって、そして闘争に寄生した活動家にとってさえ、誰にとっても得になることのなかった不毛な争いとなってしまいましたよね。 高度経済成長の中で育ち、身近なひとたちの(就中私自身の実家も)そうした立ち退き・補償の問題を、長年いくつも見聞きして来た者の実感です。
ありがとうございます わたしはこの成田の空港問題は最終的には役人が悪だと思ってます。 まずあんな都心からいくのに1時間以上かかるようなところに空港をたてたこと。 それから用地をしっかり確保できなかったこと。 成田の場合は役人がもたもたしているからゲバ棒をもったわけのわからん連中が参加することになってしまって、ますますまとまるものもまとまらんことになったのだと思ってます(日本のこういった問題はすぐ感情論になってしまう)。 ここにも書いたけど、わたしはいつも成田をつかうたび30年間以上ああまだこの反対派の家はあるのだなと思ってみてましたが、 今回初めてあそこでまだ作物を作っている人がいるときいてびっくりしました。 http://bbs.arukikata.co.jp/bbs/tree.php/id/908325/-/parent_contribution_id/459198/ NIMBYsというのをごぞんじですか? Not In My Backyard の 略で、 https://en.wikipedia.org/wiki/NIMBY こういった公的な必要悪な建物を作ることは賛成なのですが、 ひとたび自分の所にできるということになると反対するひとたちのことです。 役人というのはこういった人たちと和解説得するのも仕事で、成田のあと今まで九州の高速道路とか原発とか沖縄米軍基地とか、日本ではいろいろ成功しているのもあるのでしょうが、これはひどい失敗例だと思ってみてます。 LAもいま地下鉄をビバリーヒルズ高校の下を通すとか アメリカ原住民(インデアン)の神聖な墓場を住宅地にするとかこんな話はしょっちゅうあります。 まあ既成権を持っている人はいろいろ言い分があるのでしょうけど、そこをまとめるのが行政の仕事じゃないでしょうか。
成田空港ナッツ 乗り入れ各社のおつまみに強制採用。千葉県名産?ってったら落花生だとオイどんの頃小学4年の社会科の教科書に出てたっけ。現在はどうだか?ナッツが激売れ商材に?!
千葉産のピーナツは高い 中国産は不味いという話は聞かないし安い。 柿の種にはいっているピーナツは中国産でしょ? でも「強制採用」は初耳ですね。 成功を祈る!
土地にそのものに執着するなぜ1km先に移動するのも嫌なのか? 公共用地に自宅が掛かり、田畑がかかる人は自分の所はいやだ反対側を買収しろと言いますネ。 代替え地をその保証金で買えばいいだけなのに。 どうせ農地解放等で二束三文で水のみ百姓だった祖先が手に入れた土地なのに。 だれかがその移転などで滑走路等の土地を生み出さないと近代社会に歴史の進歩に追いついていかない。 文明はどんどん発達するそうでないと羽田や関空のように海を埋め立てて飛行場を作るしかできないことになる。 内陸では難しい問題ですよ。