『縄文語の発見』/民族名の起源 こんばんは 『縄文語の発見』は、縄文語って何だろう?と思い、書評をのぞいたところ、 言語系統論や比較言語学の研究方法が素人にもわかりやすかったと書いてあり、読んでみることにしました。 ◎◎語が祖語から分岐したのはXXX年前、などと言った話題を見聞きするたび、いったいどうやってわかったのだろう、と不思議に思っておりました。この本で理解できるかもしれないし、納得できないのかもしれない。読み終えたら感想を書きます。 民族名の起源は興味深い話題です。 「自分が所属する集団の名」が必要になるのは、他民族集団との交流時ですよね。 「我々」や「人間」が起源と考えられる民族名がけっこうあるのが、面白いです。 お前ら何者? 我々だ、お前誰? 人間だ 居住地の特徴や民族の伝説からきた民族名もありそうです。 「魚を測るメジャーの名」説を記憶したのは、交易時についたあだ名が民族名化したとしたらおもしろいと思ったからでした。 しかし残念、そんな説はなかったんですね(笑)。 >有力な説としては「地」を表す古バルト語の*zemēがあります。 >ノヴァヤゼムリャも同語源,またもうひとつの部族名Hämeもここから来ているらしいです。 >もうひとつの有力な説としては「民」を表す印欧語からの流入ということで, >同語源としてリトアニア語のžmuõ,ラテン語のhomōがあるそうです。 なるほど、「地」だとしたら、それも良き名だと思いました。 「我々は大地から来た者だ」 あるいは、隣接しライバル関係にある二つの民族があり、一方の主要交易ルートが主に「海路」、もう一方は「陸路」だった。 などと想像が膨らみます。 では!
QAの場にふさわしい(?)一つの謎 お久しぶりです。 戯れに私の主義を曲げて、をよく見破りましたね。流石です。 あ、これは別場所の話。 さて本題。 日米首脳会談の様に文脈全体から日が日の出づる国を示しているのは 誰にでも理解できるはずです。 ただし日の一文字では暦の一日、太陽を示す普通名詞となりますね。 Suomiと記せばフィンランドの民を指し示すのは間違いない様です。 suomiとすれば湖沼の意を持つ単語にはなるかもしれませんが 「湖の国のフィンランド」とする意味を持たせるには相当な強引さと 無理があると感じられます。 それとて噂や風説が流布されるのと同じく、Muumilaaksoさんが書いたとおり 俗説は俗説として世に広まるのが、その真骨頂というものでしょう。 これは学問を真摯に修めて己の知識としたMuumilaaksoさんとは違い、 私はネット上の情報から目にしたものだけで自身の心がどう動くのかを 考える場面が時折にあります。 誤った情報を頑なに信じた挙句に特殊詐欺の被害に遭うのは悲惨ですけど こういう旅題材に多少なりとも関係する各種の主張が混じるのは面白い といえば面白い。 例えば各国観光局などから画像提供を受けて安直に作ったかの如き 旅案内本を読んで現地に行ったなら「なぁんだ」程度の話はママあることで。 それとて被害というより旅の思い出に昇華できるにしても。 フィンランドはヘルシンキしか体験していないので、湖の国という実感は 無かったです。惜しいのは「湖の国」を体験できるのは何処かと言う情報が 得られないことです。 世の案内本は観光地として地名,店名や何が名物であるかwhere,what紹介は 多いけれど生身の旅行者がどうすれば同じものに到達できるかのhowが 充実した良書が少ない気がします。 民族の起源とそこから生まれた言葉や文明の移動については私も タダナラヌ興味があります。とはいえ、語るほど知の修練を重ねていないので 単に好奇心程度のものですが。 あれこれと考えてしまう旅パズルの一片がカチッと組み合わされるような 皆様の面白話が楽しみです。 あ、タイトルにした疑問について。 MuumilaaksoさんのHN。 これはヤンソンの作品と何か関係があるのでしょうか。
東部へ行かなかったのですか? >フィンランドはヘルシンキしか体験していないので、湖の国という実感は 無かったです。惜しいのは「湖の国」を体験できるのは何処かと言う情報が 得られないことです。 私だけでもここで2桁は書いてますよ。東部の大サイマー湖水地域は10万、20万ともいわれる世界最大級の湖水地帯です。 ここはまるで巨大な湖の中に数百万本の道が張り巡らされているようです。 要するに、至るところ天橋立のような風景が広がっているということです。 ポーランドの「平原の国」「のように地形をもとに国名を付けるとしたら、「湖の国」以外の名前は考えられないでしょう。 せっかくフィンランドに行かれたのに、湖の国の風景を見ないなんてもったいなさ過ぎます。
Re: QAの場にふさわしい(?)一つの謎 こんにちは。私の投稿を丁寧に読んでくださってありがとうございます。 Muumilaaksoというのは,お察しのとおりヤンソン作のムーミンの舞台,ムーミン谷のことです。タンペレにはその名のムーミン美術館があります。最近リニューアルされて,まだ行っていないのですが…。 ヘルシンキ近辺は湖が少ないですね。フィンランドならどこでもというわけではなく,Varsinais-Suomi地方,Pohjanmaa地方は湖がとても少ないです。多いのは南東部ですが,この辺は地図を見るだけでも陸地と水の模様が楽しいです。
Re: QAの場にふさわしい(?)一つの謎 こんばんは いつもの音読したい日本語節に接し、つい常のままレスをつけてしまいました。 >フィンランドはヘルシンキしか体験していないので、 >湖の国という実感は 無かったです。 >惜しいのは「湖の国」を体験できるのは何処かと言う情報が 得られないことです。 ヘルシンキからタンペレ行きの列車から眺めるだけでも、(冬でどこもかしこも真っ白だった)まっ平で樹木も家屋もなく周囲より低い土地が次々と現れるので、あれが湖なのだろう、たしかに湖が多いなと思ったのを覚えています。 しかし、ムーミン谷さんの解説で、私が見た地域は湖が少ない方であると知りました。あれで少なければ、フィンランド的に湖が多い土地とはどんなであろうか。それから、夏場の蚊が巨大かつ凶暴なのではかなかろうかとも想像しました。北米五大湖地方なみの蚊。刺されると何日も痒みが残るあいつらですね。 >世の案内本は観光地として地名,店名や何が名物であるかwhere,what紹介は >多いけれど生身の旅行者がどうすれば同じものに到達できるかのhowが >充実した良書が少ない気がします。 おっしゃるとおりです。 Howつきでwhereやwhatを紹介してくれる人は大事にしたいものです。 howを通過したwhereやwhatを受け入れやすいのは、結論の鵜呑みとは別種だからだろうね。 結論に至るhowを語れる人が、その分野の専門家でなのだと思うことにしています。 専門家を名乗るものの、howを通過しないwhereやwhatを語り、よく聞くと受け売りで、さらによく聞くと、根本本がさらに別の本の受け売りだったりすることも稀にありますが(笑)。 では!
手軽に森と湖の国を実感できるのはアウランコ国立公園 ヘルシンキから列車+バスで片道1時間半ほど。楽に日帰り(半日でも可)できます。 展望塔から眼下に森と湖の典型的風景が見られます。
民族のなまえ 横からですが、旅行中でちょっと目に留まったので、失礼。 言語の名前は、他の民族と高い頻度で交流がなければ名前はつかないものと思います。 民族名も然りでしょうか。 倭人の「わ」というのは自称のようです。津軽方言では現在も使います。 「わはなになにだはんで」(わたしは何々だから)なんて言います。 「わ」が自称の証拠としては、今の日本の教科書でも「わが国」なんて書いていると思います。 タイランドの「タイ」というのも元来、人を表す語です。 タイ・カダイ語族ではタイ・ルー、タイ・ダム、タイ・ヤイなどと部族を区別するときに使ったり。 Hmong(モン)族のモンというのも人を意味しているそうです。 中国人(漢民族)は、モン族の人たちを苗(メオ)族(猫の意味)と呼んでいましたが、今はモン族と呼ぶのが一般的になりました。 タイ語系の言語グループはタイ・カダイ語族と言いますが、このカダイというのは「・・・でもいいよ」という意味です。 おそらく言語学者に「お前の話しているのは何語なんだ」と問われたら、国を意識しない時代の人たちは「人の話す言葉」としてタイ語と答えるでしょう。 言語学者はお前たちの言葉はタイ語と違うね、と言います。そしてあの人たちの言葉はラオ語だ(ラーオは彼らの意味、第3人称)。 そんなに言われても困るんだけど、俺たちの言葉もタイ語でいいでしょ(タイ・カダイ)。 言語学者はそうか、タイカダイ語か。正確に記録するのが大切なんだ、と。 妄想を交えたレスでごめんなさい。
「わ」は一人称ですから。 我が国、の我であり 一人称の我と、中国からの呼称であって、いい意味を持たない倭に共通性をお感じなのでしょうか。
Re: 民族のなまえ こんにちは いずこをご旅行中なのだろうか。 >「わ」が自称の証拠としては、今の日本の教科書でも「わが国」なんて書いていると思います。 たしかに! しかし、そんな風に考えたことはありませんでした。 いまも現役で使われる表現「わがくに」が、倭国の起源であるかもしれない!気が遠くなりました(笑)。 タイ語系統もおもしろいですねえ。 タイはタイ語で「人」、ラオは(タイ語で?)「彼ら」、そして、タイガタイのガタイは(タイ語で?)「~でもいいよ」。語族の名が成立時の力関係が透けて見えるようです。 ところで「倭」は、『漢書』や『三国志』では、倭人は日本列島の住人として記述されますが、それ以前の歴史書では、朝鮮半島南部あるいは揚子江の南側あたりのどこかに住む人々となっています。 戦国時代に成立したという『山海経』には、「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕(蓋国は巨大な燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す)」。「燕」は渤海を起点にみると、東は朝鮮半島北部まで、西は上海までテリトリーを広げた大国です。すると「倭」の位置は、朝鮮半島南部か揚子江下流あたり。どちらだろう。 後漢代に著された『論衡』には、「成王時越裳獻雉倭人貢鬯」(成王の時、越裳は雉を獻じ、倭人は鬯を貢ず)とあります。成王とは周代の王(全11世紀)です。周代の「倭人」はおそらくベトナムだと思われる「越裳」とセットで記述されたのですね。すると、倭人がいたのは、江南から雲南のあたりのどこかになりそうです。 ひょっとすると、「倭人」には、タイ人の祖が含まれる可能性もあるなあなどと、考え出すと止まらないわけです。 では!