退会ユーザ @*******
18/02/08 21:47

またこれですか・・

シューマンヲタとして再度申し上げますが、勝手な想像による作り話はやめて頂きたい。
以前これでガアガア書いたらばさっと削除になったので、今回は簡潔に一度だけ申し上げます。
シューマンがハイデルベルクで学んだのはたった3ゼメスターに過ぎず、しかもずっといたわけではありません。むしろライプツィヒの方に長くいました。
蝶々も、ハイデルベルクですべて書かれたかどうか彼の評伝をひっくり返して探しましたが、そのような証拠はございませんし、ハイデルベルクに着想を得たのではありません。シューマンヲタなら誰でも知っていることですが、ジャン・パウルの小説に着想を得て書かれました。

これを書くのなら、むしろシンフォニー3番「ライニッシェ」がケルン大聖堂やライン川(ローレライ)に着想を得たもので・・云々と、ケルンやライン川クルーズご推奨の際に一言宣伝される方がよほどに良いと思います。こちらは事実ですから。私だって見直しますよ。
ちなみにシューマンヲタの聖地は、ライプツィヒ、ツヴィカウ、デュッセルドルフとボンです。推薦よろしくお願いします。

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1件のコメント

  • ショパンヲタが聞いてあきれる

    >ハイデルベルク大学のティボー教授は法律学の権威であるとともに熱心なアマチュア音楽家だった。彼は合唱団「ジングフェライン」を組織し、自宅では毎週木曜日の夕方に音楽会が開かれていた。ティボーは自らピアノを弾いてヘンデルのオラトリオを演奏した[45][42]。シューマンの手紙によるとティボーは、神はシューマンに法律家としての運命を与えていないという見解を示し、シューマンは自分の時間をほとんど音楽に充てるようになった[46]。 シューマンのピアニストとしての評判はハイデルベルクの外にまでおよび、バーデン大公妃ステファニー(1789年 - 1860年)に招かれてマンハイムで演奏するほどだった[47][48]。 こうした時期に、作品1の『アベッグ変奏曲』が完成している[49][5

    あなたの好きなウイキの一部ですが、パピヨンはショパン19~21歳の時の作曲で、ほぼハイデルベルク大学時代のものですよ。曲の構想を得たのはハイデルベルクの哲学者の道ということです。

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    退会ユーザ @*******
    18/02/09 00:58

    シューマンとショパンを混同するとは呆れかえる

    あのね、あなたに教えて頂かなくてもティボー先生とシューマンとの師弟関係なんぞシューマンヲタなら誰でも知ってることですよ。その話は超有名。
    さっき検索して初めて知ったあなたとは違うんです。

    私は日本版ウィキは信用していませんので、そこからの引用は論拠としては認めません。せめてドイツ版を見ましょうね。
    蝶々の構想はジャン・パウルということも超有名な話です。ばかばかしい。