あ、完成は今年でしたか・・

EAVOさん、こんにちわ。

鉄道ファン失格の無知さです。
2年前に訪問したとき、すでに工事の柵が貼られており、列車を待つ気力もなく鉄橋の写真だけ写して帰ってきました。

学生時代、クラブ活動の合宿でこの界隈を行き来しており、餘部駅は何度か乗下車し、ましたし、鉄橋の途中まで歩いてみたり・・・高所恐怖症なので、本当に怖かったです・・思い出多い場所ですが、昨今の鉄道人気、今からだと込みそうなので完成してから行きたいと思います。

>長州藩の桂小五郎(木戸孝允)が禁門の変で幕府の役人から逃れて潜伏した出石などが入っていて温泉、史跡、餘部鉄橋など盛り沢山です。

出石も2,3度行きましたが蕎麦を食べて通り過ぎた・・・そんな感じです。
落ち着いた良い町ですが桂小五郎が潜伏していたとは知りませんでした。

新幹線で関西入りとの事ですが全行程、基本は鉄道ですか?

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2件のコメント

  • 10/05/26 20:32

    Re: あ、完成は今年でしたか・・

    餘部についてはほかのレスのとおりです。

    私は桂小五郎関連では京都の幾松だったか元木戸孝允邸が旅館になっていてだいぶ前に泊りました。
    今回のツアーの乗り物は新幹線初め全部鉄道です。
    今流行の高知の坂本竜馬生誕地にも電車で行きました。
    私は鉄道のことは好きなだけで詳しくないですが幕末については鞍馬天狗の映画もよく見ていましたが割合人物関係もよく覚えています。

    前にも言いましたようにJR西日本が新幹線を含む乗り放題を出せばいつでも行きたいですが、残念です。
    東は何度もやっていて範囲も広がりましたので相当乗りました。

    私の祖父が新撰組の池田屋討ち入りのあった元治元年の生まれですから昔のような近いような不思議な思いです。
    祖母も明治元年の生まれですが子供のころ刀を指している人を見た事があるそうです。
    今は明治生まれが少なくなってしまい私も年寄りになるわけです。
    わたしの最大の希望は100歳まで生きて又聞きの又聞きですが幕末の話をする事です。

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  • Re: あ、完成は今年でしたか・・

    餘部鉄橋を昼間に渡ったのはもう20年以上前のことになってしまいました(夜行では何度か通っていますが)。ここら辺は言っては申し訳ないのですが、駅があるのが不思議なくらい辺鄙なところばかりで、折り返しで下車した鎧駅でただぼんやりと海を眺めていたことを思い出しました。

    こちらに餘部鉄橋の写真も。昔はわざわざ写真を撮りに行っていたんですね:http://homepage2.nifty.com/supership2/Railway/DC.html

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    餘部駅

    餘部鉄橋が開通し、山陰本線全線繋がったのは明治の御世ですが、餘部には駅はなかったそうです。

    Wikiで見ると
    余部橋梁が完成してから1950年代まで、余部集落住民が山陰線を利用するためには、列車の合間を縫って徒歩で余部橋梁を渡り、トンネルをくぐって隣の鎧駅まで行く必要があった。

    1955年(昭和30年)、地元住民が駅設置の実現化に向け、国鉄に強く働きかけたり、小学校児童が県知事に駅設置を願う手紙を書くなどの行動が展開された結果、駅設置が決定した。

    建設の際は住民たちも駅造りを手伝い、その様子を描いた壁画がホーム傍に立てられていたが、新橋梁建設工事開始後は周辺案内板等と共に撤去されている。


    昭和40年代の後半、私が乗り降りした頃は全部の各駅停車(DC機関車+客車)が停車していましたが、先輩に聞くと以前は各停でさえ通過が多かったので、クラブ員が下車するため国鉄に臨時停車をお願いした・・・との事。

    鉄橋の下に集落があるのはご存知だと思いますが、小さな小学校もあります。
    しかし道路が発達していなかった昔はさびしい所だったと思います。

    小学生の頃父親が買った日本全国の観光地の写真集(白黒)に餘部鉄橋を渡るSLが掲載されており、子供ながらに「是非行ってみたい」と思ったのですが、当時は同じ県内なのに遥か彼方の地・・でした。

    >こちらに餘部鉄橋の写真も。昔はわざわざ写真を撮りに行っていたんですね

    拝見しました。
    なかなかの腕前、かなりの撮り鉄とお見受けします。

    ディーゼルカーは郷愁を感じますね・・・って、単身赴任先のJRは非電化なので、いまででも時々乗っているんですけどね。

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