僕の幼少時代は、河内のどまんなかで、 間違い無く、「でん、ついた」なんて、使わんかったですな。 北河内の女々しい言葉使いとちゃいまっか? で、雄々しい言い方ってあったのかな?記憶おまへん。 くいもんと言えば、阿倍野の天王寺駅隣のMioなんとかビルでハゲ天のテンプラランチはうまかった。 どうも、食いもんについては貧弱な僕で、発言権は皆無ですわ。 インドでの、「生きて行ける、まともな食事のありつきかた」、は、得意でっけどな。 すんまへん。
Re: 僕の幼少時代は、河内のどまんなかで/考えてみると.... 春ゼミさんこんにちは。 コメントありがとうございます ~考えてみると、“河内”ってどのあたりを言うのでしょうか、あまり知らないことに気が付きました! 北河内が女々しいかどうか???ですが、私は阪神間ですので、たぶん該当しないのでは。 むうにゃんさんはどちらのご出身か存じないのですけれど、神戸の東部では使ってましたよ~ ことろことろ、や花いちもんめ、初めの一歩、などで遊んでいた時代の話でございます....... ~そうですか、ハゲ天、今もときどき百貨店に出ているお店でしょうか。 食べ物の記憶、というと、梅田に三番街ができましたとき、友達とはいった店で、生まれて初めてタバスコを(どういうものか知らなくて)使い、目から火が出るようなの思いをしたのを思い出します。 ちょっと珍しいスパイスなどは、梅田まで出なければ手に入らない時代で、田舎者だったんですよね~
どうもどうも返信が遅れてしもて・・・ 大阪は、淀川から南の平野部を、北から北河内、中河内、南河内って分けてますねん。(あたりまえだのクラッカーですな) で、北河内は京阪沿線、片町線(今は?)沿線、中河内は、その南で、八尾、河内松原あたりまでで、 そこから丘陵地帯になって、南河内で、藤井寺、富田林、河内長野や、金剛山麓までも入りますな。 古墳時代は、北河内、中河内あたりは、海や湿地でおましたな。で、松原って地名があって、そこから北は淀川までが海やったわけです。 淀川と大阪湾の間に、おのころ島があって、その島は、イザナギ、イザナミの命が、鉾を海にしたして挙げた時に落ちた泥で、日本列島の最初の部分ができたってことで、この辺りのことは古事記に載ってますが、古事記って一種の壮大なおとぎ話です。ギリシャ神話に較べるとせこい話ですけどな。 大阪湾との間に南から和泉丘陵、とその延長が大阪城辺りまで伸びていて、大阪湾との間を仕切ってたですな。淀川の北側は摂津いいまして、これが京阪神に繋がってたわけですわ。 武士どもが支配始めて、摂津には摂津源氏、南河内には河内源氏が住みついて、河内源氏から源氏三代(頼義、義家、義朝)が関東へ勢力を広げたですな。で、河内弁(武士言葉の、御前=おまえ、おのれ=おれ)が関東に伝わったってことやね。前にも言ったけど、おのれには2人称で相手をおこる意味もあって、これが「おんどれ」って、中、南河内では今も残ってるんですな。 で、その昔は、北と南の間には湿地があって、北と南ではかなり言語、文化的にも違ったんでしょうな。ってことで、北河内はどっちか言うと公家言葉が伝わったんでしょうな。うち、とか、あんた、は女言葉は、京都、北河内が本拠で、中、南では女が使っとりましたな。 ってだんだんと話が広がるんで、これまで。