阪急京都線最後の夜も見送りに行きましたよ

へぇ~、はっつさんは神戸や市岡に住んで居られたのですか?
市岡といえば桂三枝の古里ですね。

ご存知のように以前の阪急梅田駅は、
国鉄大阪駅東の跨線橋を南へくぐった地平にあったのですが、
輸送力増強のため列車を長大化する必要に迫られ、
手狭になった旧梅田駅を国鉄線北側の現在地へ移設し、
3階部分をホームにしたものです。

最初に神戸線、次に宝塚線、最後に京都線と3ホームずつ移設工事を
進めていったのですが、最後に残った京都線の旧駅からの最終電車は
これも帰宅の宝塚線最終電車に乗る都合で、見送ることができず、
1つ前の発車を見届けてから、新駅から発車する宝塚線最終で帰宅しました。

今年は阪急開通(宝塚線・箕面線)100周年で、
記念日の3/15には梅田駅の乗車券を買いました。
会社としての創業(箕面有馬電気軌道)は昨年が100周年で
種々のイベントがありましたが、
開通100年は特になにもなかったようです。

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1件のコメント

  • 私と乗り物

    タイ国鉄さん、どうも乗り物にまつわる話で、関釜連絡線で行った奉天

    で国民学校に・・・・疎開先の耶馬渓で終戦・・・中津から国鉄の鈍行で上阪、駅前の質屋で質草に同情されて市電の切符をゲットして市岡元町へ。

    焼け跡を市が地上げ、6メートル埋め立てしたのが今の港区、22歳でタクシーの運転手、うめだ、てんろく、てんま、うえろく、なんば、じゃ

    まっけでコン畜生の市電、いまは省エネの優良児。時代は変わって橋下さん。

    ん10年まえタイから妻と関空トランジットでハワイへ、家内のトランジットビザを領事館で、関空で領事館スタンプを偽者扱いされなが

    ら何とか入国、ン十年ぶりの環状線経由で新大阪、運転初期のぞみみで一路東京から快速で四街道へ、妻と大阪観光もはしょって。

    タイ航空のハワイ往復券では関空下車不可能のため、ハワイのJoLで正規運賃のチケットを購入、その時グレートアップされ初めてファーストクラスを。

    3年前叔母の法事で従妹の住む宝塚へ、千葉の津田沼から深夜バスで梅田へ、早朝なので曽根崎あたりできつねうどんを、明るくなっているのにポン引きに声をかけられウラシマ状態。

    阪急梅田もすっかり様変り、でも電車のデザインは同じでほっと。そういえば能勢電鉄なんてあったっけ。

    もうひとつ昔ですが、京阪で淀屋橋から乗り京都へ、地下で降りるところが分からずそのまま十三まで、京阪と阪急が総合乗り入れしてたんだっけ。

    そうそう関東では区間急行ってあまり聞かないようですね。ソフトもハードの導入は関西が早いようで。

    作りかけのタイ国鉄高架の残骸?も気になりますが談長になるのでこの辺で、また。

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    京阪と阪急が相互乗り入れ?

    のんたん、この場を借りてのはっつさんとのおしゃべり、許してね。
    鉄道の昔話を始めるとキリがありません。

    京阪で京都へ行くと、昔の三条の終点が今は出町柳まで延長され、
    叡山電鉄(旧京福電鉄叡山線)に接続しています。
    三条から浜大津の京津線が一部地下へもぐり、
    市営地下鉄に乗り入れています。

    阪急十三へ戻られたのだったら、京阪四条から徒歩で阪急烏丸へ行かないと
    乗り換えられません。なにかの勘違いでは?
    京阪と阪急は線路がつながっておらず、昔から良きライバルです。

    現在の阪急京都線は、天六から淡路経由で京都(西院)まで、
    京阪の子会社の新京阪鉄道が開設し、
    十三~淡路~千里山の北大阪電軌と接続していました。
    その後、北大阪電軌が阪神急行(阪急)と合併し、十三~梅田を宝塚線を使って
    直通運転していましたが、戦時中に国策で阪急・京阪・新京阪が合併して
    「京阪神急行電鉄」となりました。

    戦後に京阪が分離独立するとき、旧阪急側の重役の比率が多かったため、
    新京阪線が阪急に残り京都線になったと聞いています。

    京阪の大阪・中之島新線延伸、阪神・近鉄の西九条~なんば間連絡で
    神戸~大阪~奈良の相互直通運転、阪急の十三~新大阪計画など、
    大阪の私鉄地図は大きく塗り替えられようとしています。

    以上、宿直勤務の職場から、うろ覚えのレスなので、細部については誤りがあるかも。
    ゆっくり調べなおして、訂正するかもしれません。

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