語源表記法vs発音表記法、といっても現地では・・・。 中身を再確認するために『Mireille』をわざわざ図書館で借りてくるなんて、なんという気合の入り方・・・。 フレデリック・ミストラルは、プロヴァンス地方では色々な町に胸像やその名を冠した通りがあり、ある程度の期間この地方に滞在していれば必ず彼の存在に触れるはずです。確かに「プロヴァンスの父」と呼ばれるほどその業績は大きいものですが、だからといって崇め奉られているわけではなく、現代ではマイヤーヌ村出身の『Mireille』の作者でノーベル文学賞受賞者という一般的な歴史的人物として人々の生活の中に存在しているだけで、この詩人に関してそれほど詳しい知識を持っているわけではありません。 ミストラルの最も大きな功績は、ひとえにプロヴァンス地方全域に林立していた綴り字法を統一したことにあります。プロヴァンス語の復興運動を興したあとには、それまで確立されていなかった「書き方」を語源表記法とするか発音表記法とするかでさらに分裂する様相を見せていたところ、ミストラルの譲歩と調整によりようやくまとまりました。それをもってプロヴァンス文学の新しい歴史はスタートしたのです。 と、上記のようなミストラルに関する深い話題を持ちかけても、当のプロヴァンスの人たちからは逆に驚かれてしまいます。 青空人さんがプロヴァンスの人と、ミストラルと『Mireille』の話をされるとき、相手は「Mas du Juge」には行ったか、と訊いてくるかもしれません。それはマイヤーヌ村にあるミストラル記念館のことを指しています。(正確には「Mas du Juge」は詩人の生家として知られた名で、記念館とは違う建物ですが。) あとは、個人的には南仏吟遊詩人トゥルバドゥールの時代へとさかのぼってしまうのですが、これは話題を大きく逸らしてしまいますので止めておきましょう。 長くなってしまったので、この辺で。
プロヴァンスの遠い記憶 レスポンスが遅くなり、申し訳ありません。 フレデリック・ミストラル記念館が地元の人たちの間で「Mas du juge」という愛称で呼ばれていることに、この詩人の人々の心に根ざした存在の親近感を感じることができますね。 トゥルバドゥールに関しては、かつて中世宗教史を勉強した中で、隆盛を極めた南仏諸侯の宮廷文化を支え、その衰退とともに消えていった存在として認識していますが、その活動の場はトゥールーズやカルカッソンヌ等のスペイン寄りの地域だったと思います。彼らはプロヴァンス地方でも活躍していたのでしょうか? でも今の時代、さすがにトゥルバドゥールの記憶や足跡をプロヴァンスに見い出すことは困難なのでしょうね。
トゥルバドゥールの記憶 フランスの歴史にお詳しいであろう青空人さんにとっては、ご存知の史実だと思いますが↓、 中世期のフランスには当然今日のような行政区分はなく、「言語」による漠然とした地域分けがあるのみでした。 したがって、フランスの中央山塊以南のフランスはラテン語が派生したオック語の世界であり、そのエリアにおいて北仏オイル語とは違う貴族社会が形成されていました。その広い地域の中に、南仏吟遊詩人トゥルバドゥールは生きていました。 プロヴァンス地方にも、ルールマランを本拠とし、リュベロン地方に権勢を振るっていた貴族があって、その庇護のもとで活躍したトゥルバドゥールの記録が認められます。 トゥルバドゥールは、南仏諸侯の衰亡とともに消散してしまいますが、彼らが詠んだ詩はやがて時代が下ってプロヴァンスの地域意識の高まりとともに蘇り、プロヴァンス文学の復興運動を呼び起こし、そして今の時代のプロヴァンサルの誰もが持っている郷土愛の礎になっていったのだろうと思います。
ミストラルの生家、Mas du Juge マイヤーヌ村の i の男性は(他の i 同様)親切で、ていねいに教えてくれました。 ミストラルの生家、Mas du Juge の所在地ですが、村からサンレミ方向にはずれた場所の、右手だそうです。並木のある道の2本目、とかいったちょっと漠然とした説明。地図に鉛筆で印を入れてくれましたが・・・ i にいたご婦人を指して 「たまたまおられるこの方は Mas du Juge のオウナーです。でも、現在、Mas du Juge は公開されていません」 ということでした。 結局、 Mas du Juge がある道を特定することは出来ませんでした。