Re: 山の手線!の歴史は古いのです。

>東京駅が完成し、新橋・上野が直結したので、在来線?は新橋・日本橋・・つまり下町経由に対して山の手を走るから"山の手"線となったと聞いていますが・・・。

品川ー新宿ー田端は、地形から見ても山の手ですよね。
上野から田端までは、大宮方向を向いて左手はちょっとした崖ですよね。

で、田端駅を出ると坂道を登って駒込に向かいます。
田端駅のホーム階段をよっこらしょと登って改札を出るとそこは地上です・・・という事で、「ああここはやっぱり山の手なんやなあ」と感じたことを思い出します。

>そういえばお江戸の山の手は麹町、番町などで、武家屋敷の多い場所。 今の渋谷、世田谷なんていうのは肥えの臭うど田舎、六本木麻布はいまでも狸穴なんて地名が残っているほど・・。

銀座が銀貨を作っていたのは有名な話ですが、麹町って麹を作っていたのでしょうか?
番町は番屋があった、麻布は麻布を織っていた・・・??

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3件のコメント

  • 退会ユーザ @*******
    10/10/16 02:43

    Re: Re: 山の手線!の歴史は古いのです。

    麹町は、甲州街道の入り口の意味です。

    麹は、語変化だと。

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  • あ 書き忘れでした。

    番町はなぜか1番2番3番というわけ方だったらしいです。

    麻布は・・・どうなんでしょう。 あそこは江戸では田舎・・でした。 台地の中に低い土地があって町家があったようですが台地の上は大名家の中屋敷や下屋敷。 閑静な郊外のおもむきでしょうか。

    上野・田端間の崖の反対側はいわゆる谷中田んぼで、その先が根岸の里の侘び住まい、それにつけても金の欲しさよ・・・?です。

    坂道を上がれば駒込、柳沢吉保の六義園ですがあの泉水の水は小石川の方から引いていたのですから江戸城の防衛線の台地だったようです。

    そうそう麻布に戻れば、この台地を下れば三田を抜けて品川の海岸線。この周辺はお寺をイッパイ配置しての防衛線です。

    その中でももっとも田舎が白金、渋谷、青山・・・。

    ですから麻布が麻布生産地・・・というのも案外当たっているかもしれません。

    四谷が四谷杉といって茶室などに使う丸く皮をむいて白く艶出しをした杉丸太の名産地だったんだそうです。
    もっとも江戸の大火事のたんびに生産地はドンドン遠くなり、青梅がそれでにぎわうのはかなりあとのお話ですが、それでもずうと四谷杉、四谷丸太・・といわれていたとか・・・。

    いまでも四谷三丁目の飲み屋街(少しさびれかけていますが)どおりに杉大門どおりというのがあります。地名の由来はお寺の参道の杉並木のようですが、この四谷杉にちなんでいるそうです。

    このそばの大名下屋敷に生まれて会津松平に養子に行ったのが松平容保さん。

    ああ また脱線です。 線路のお話なのに脱線ばかりですね。

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    退会ユーザ @*******
    10/10/16 02:37

    Re: あ 書き忘れでした。

    よく知っていますね。

    昔は、下町のほうが都心でした。

    渋谷なんて田舎です。

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  • 、麹町って麹を作っていたのでしょうか?

    内蔵介どの

    どうもそうのようです。 

    あの界隈は旗本も割りと上のほうのお屋敷が多かったようですが、番町の方が格は上?だったようです。

    例の盲人学者塙保己一の川柳で<番町は目明き目XXに道を聞き>というのがありますが、もう一つの意味はあの界隈の武家屋敷・・大きくなくてもそうだったらしいですが、表札が無い(今の時代劇ではしっかりかかっていますが)のだそうです、家屋敷の配置を暗記している盲人の方が各屋敷の住人の名前を知っている・・という意味もあるんだそうです。 あっ脱線の脱線。

    さて麹町。 あの辺はお城の北側の台地です。一説によると江戸城の抜け穴が神田明神まで抜けていたなどというお話があります。いまでもあのお城跡の地下は一説によると巨大なブラックボックスのようですが。

    幕末近くなるとかなり大身の旗本も内実は苦しく、結構内職に励んでいたようです。人気のあったのが小刀で出来て、しかも仕上がりが小さい楊枝、それも高級楊枝だと袱紗風の布に包んで胸に抱えればたとえ奥方でもそんな楊枝で日本橋の大店へ出向いても目立たない。・・・あ また脱線。

    こういう内職?副業の一種で屋敷の地下を糀室に貸すのだそうです。 味噌醤油酒・・いろいろな食品加工に糀は不可欠でその需要は大きなものだったようで、かの地の地下はその一大生産地だったようです。それこそ地下の穴倉で出口が外なら<身どもはあずかり知らぬこと・・>といって名義料をいただいていればいいわけですし。

    その名残が神田明神入り口の甘酒やさんでいまだに神田明神の台地の地下は糀室ですが、それはこの名残だそうです。

    ウソのような本当のようなお話ですが、江戸の故実の大家 宮川曼魚氏の本に出ているようです。

    もっとも今生きていれば100歳を越えるような人の東京育ちの人には珍しくもなんとも無いお話・・・?なんだそうです。

    ああ、やっと終点です。

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    退会ユーザ @*******
    10/10/16 02:40

    Re: 、麹町って麹を作っていたのでしょうか?

    昔は、水路、掘割があって水上交通が発達していました。

    現在、開発や道路の建設でなくなってしまいました。

    しかし水系は,生きているようで地下川としてあるようです。

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